クマはなぜ街なかまで来るのか スプレーの新しい目安と、河川敷という道
戦前の山奥ならともかく、令和のこの時代に、県庁所在地の真ん中でクマのことを本気で考えることになるとは思っていませんでした。
先日、クマ撃退スプレーに国の目安ができたというニュースを目にしました。道具の話として読み流すこともできるのですが、少し調べていくうちに、これは不動産の仕事とも地続きの話だと気づきました。
スプレーに、初めて国の目安ができました
2026年8月25日、消費者庁・環境省・国民生活センターの3者が「クマ撃退スプレーの性能に係る推奨要件」を公表しました。示された目安は、おおむね次のとおりです。
有効成分はカプサイシンおよび関連するカプサイシンの合計濃度で1.0〜2.0パーセント程度。噴射距離は常温・無風の状態で7.5メートル程度以上。噴射は6秒程度以上続けられること。噴射のかたちは霧状で、円錐状に広がるもの。内容量については、製品ごとの差が大きいため要件は設けられていません。
この資料には、参考値としてクマの走る速さが秒速11メートル以上と書かれています。7.5メートルという距離は、クマが走ってくれば1秒に満たない距離です。目安の数字が何を前提に置かれているのかが、ここでよく分かります。
あわせて、注意喚起も出ています。国内に流通している製品の中には、対人用の催涙スプレーをクマ対策用と称するものや、米国EPA登録製品に酷似した模造品があるとのことです。対人用とクマ用は求められる性能も設計も異なるため、明確に区別されるべきものだと明記されています。持っているだけで安心していた方は、一度手元の製品の表示を確かめてみてください。
盛岡の街は、川が貫いています
環境省の「クマ類の出没対応マニュアル」には、こう書かれています。河川敷や河畔林、段丘林、島状に分布する山林、都市部に突き出た緑地帯や森林などもクマ類の移動ルートとなる。山林から離れた都市部のような地域でも、これらの環境を利用して人の生活圏に侵入することがある、と。
盛岡の街の成り立ちを考えると、この一文は他人事ではありません。市街地を北上川と中津川が貫いていて、その河川敷は市民にとって心地よい散歩道です。ただ、同じ道筋を、上流の山から下ってくる側の目線で見ると、身を隠したまま街の奥まで進める通り道でもあります。
実際、盛岡市は中津川の河川敷でやぶの刈り払いを行っています。中心部での出没が相次いだことを受けた対応や、東北絆まつりを前にした対応として報じられました。刈り払いという地味な作業が、環境省のマニュアルにある「クマ類が利用しづらい環境を整備する」という考え方そのものです。
草刈りや境界の確認で、川沿いのやぶの近くに立つことがあります。背後の茂みでガサリと音がしたときに背中を伝う汗の種類が、数年前とは変わってきました。以前なら風か鳥だろうと思えたものが、今はそう思いきれません。
数字を見ると、岩手は例外的な場所です
環境省の集計では、2025年度のクマ類の出没件数は全国で5万776件(速報値)でした。前年度の2万513件から2.5倍に増えています。人身被害は216件、被害に遭われた方は238人、うち亡くなった方は13人で、いずれも過去最悪となりました。
都道府県別の出没件数では、秋田県の1万3592件に次いで、岩手県が9739件で全国2位です。亡くなった13人のうち5人は岩手県内で、都道府県別では最も多くなっています。
この数字を前にすると、「街なかにクマが出た」という話を、めずらしい出来事として受け取るわけにはいかなくなります。
よく聞く話が、必ずしも正しいとは限りません
クマの話題が増えるにつれて、真偽の怪しい説明も一緒に広がっています。調べていて、自分が思い込んでいたことの中にも間違いがあると分かりました。二つだけ書いておきます。
一つは、ヒグマとツキノワグマの交雑種が出たという類の話です。これは、まず考えにくいことです。ヒグマは北海道、ツキノワグマは本州以南と、そもそも生息域が重なっていません。種のレベルで異なり、野生下での交雑の報告もありません。旧ソ連の研究では、猟師が交雑種だと考えた個体を詳しく調べたところ、毛色がツキノワグマに似た普通のヒグマだったという記録が残っています。
もう一つは、私自身が長く信じていた話です。かつてはニホンオオカミがクマを抑えていて、オオカミが絶滅したからクマが増えた、という説明です。これは、専門家の見方とは食い違っています。オオカミの再導入を提唱している日本オオカミ協会でさえ、オオカミはクマの天敵ではないとはっきり述べています。実際の力関係はむしろ逆で、クマがオオカミの獲物を横取りするのが普通であり、イエローストーンやポーランド、ロシアでの観察でも、敗者はオオカミの側だったとされています。
ツキノワグマが本州で最も大きな陸上の哺乳類であり、成獣を襲う動物が事実上いないことは確かです。ただ、その理由をオオカミの不在に求めるのは、どうやら筋が違うようです。
銃で止めるのも、思うほど簡単ではありません
調べていて意外だったのが、警察官の装備の話です。制服警察官が携行する拳銃は、命中精度の面でも威力の面でもクマへの対処には向きません。元警察官の方が、10メートル離れると効果的な射撃は難しく、訓練も固定された的を撃つものが中心だと指摘しています。中途半端に当てて手負いにすれば、かえって危険が増します。
こうした事情を背景に、2025年10月30日のクマ被害対策等に関する関係閣僚会議で、警察官によるライフル銃の使用が指示され、国家公安委員会規則の改正で導入が進められました。ただ、これも万能ではありません。習熟には相当の訓練が要るという指摘があり、市街地では跳弾の問題もあります。
自衛隊についても、誤解が広がっているように思います。2025年11月、自衛隊は秋田県に派遣されましたが、任務は箱わなの輸送などの後方支援でした。直接の駆除については、ノウハウがなく困難だとされています。装備の問題という以前に、そもそも駆除を担う立場にありません。
つまり、いま実際にクマを止めているのは、地域の狩猟者の方々の技術です。担い手が減っているという話とあわせて考えると、これは制度の問題でもあります。
境界線が曖昧になったのは、土地の使われ方が変わったからです
ここからが、不動産の仕事に近い話です。
先ほどの環境省のマニュアルには、こうも書かれています。農地や集落の近くの山林の多くは、かつては薪炭林などとして利用されてきたが、近年は利用されずに放置されるようになったところも多く、クマ類の生息適地となりつつある、と。
環境省が2018年に行った中大型哺乳動物分布調査では、ツキノワグマの分布は2003年と比べて約1.5倍に広がっていました。1978年から2018年までの40年で見ると、クマ類の分布はおよそ2倍になっています。
山と里のあいだにあった緩衝地帯が、人の手が入らなくなったことで薄れていきました。いま起きているのは、単に個体数が増えたという話にとどまらず、住める場所そのものが広がったという変化です。境界線が動いたというより、境界線を引いていた手が離れた、という言い方のほうが近いかもしれません。
土地や空き家をお持ちの方に、できることがあります
大きな話ばかり書きましたが、個々の土地の管理でできることは、地味で具体的なことばかりです。
盛岡市が挙げている注意事項は、生ごみや野菜・果樹の廃棄残さを適切に処分すること、収穫後の放置果実や廃果を除去すること、周囲の低木を刈り払うこと、早朝と夕方の入山を控えること、鈴やラジオなど音の出るものを携帯することです。
このうち、放置果実と刈り払いの二つは、空き家や空き地の管理そのものです。誰も住まなくなった家の庭に、柿や栗の木がそのまま残っていることは珍しくありません。収穫されない実は、そこに餌があると教えているようなものです。手入れの止まった庭木やヤブも同じで、身を隠せる場所を街の中につくってしまいます。
遠方にお住まいで、盛岡の実家や相続した土地の管理に手が回っていないという方は少なくありません。これまでは景観や苦情の話として扱われてきたことが、いまは安全の話に変わりつつあります。
市は出没情報を市公式LINEアカウントなどで配信しています。近所の状況を知っておくだけでも、草刈りの段取りの立て方は変わります。
最後の数秒の道具と、その手前にある時間
スプレーの目安ができたことは前進です。ただ、あれはあくまで、出会ってしまった最後の数秒をしのぐための道具です。
環境省の資料には、遭遇したときは慌てて走って逃げてはいけないと書かれています。クマは逃げるものを追う傾向があるため、背中を見せると攻撃性を高める場合があるからです。距離があるときは落ち着いて静かに立ち去る。近いときはクマを見ながらゆっくり後退する。スプレーは有効な距離が短いため、十分に引きつけてから顔に向けて噴射する。いずれも、その場で判断するには難しいことばかりです。
だからこそ、その手前にある時間のほうが長く、できることも多いのだと思います。庭の柿を落としておく。やぶを刈っておく。空き家の様子を年に何度か見に行く。どれも派手さのない作業ですが、街と山のあいだに線を引き直す作業は、結局そういう積み重ねなのだろうと考えています。
当社は1984年から盛岡市山岸で、賃貸と管理の現場に立ってきました。空き家や空き地の管理、草刈りや境界の確認についてのご相談も承っています。ご相談は完全予約制です。お電話(営業時間内は019-662-5353、時間外は自動応答の050-1720-0971)のほか、現地の写真を添えていただける場合はLINE公式アカウントでも承っています。
本記事の統計は環境省の集計(2025年度・速報値を含む)に基づく整理です。クマ撃退スプレーの推奨要件は2026年8月25日公表時点のものです。数値や運用は今後変わることがあります。個別の土地の管理や安全確保については、状況が異なりますので、市町村の担当窓口等にもご確認ください。