資本主義のアンチテーゼとしての「祭り」 いしがきMUSIC FESTIVALと盛岡の誇り
「心動かす音 熱帯びる街」。新聞の紙面に躍る見出しのとおり、今年も盛岡の街が音楽に染まりました。いしがきMUSIC FESTIVAL 2026は、2026年9月19日の土曜日に、盛岡城跡公園会場とマチナカ会場を舞台として開かれました。全国で活動する顔ぶれが数多く集まり、街のあちこちに人だかりができる。一見すると熱狂的なお祭り騒ぎですが、私はこの熱気を見るたびに、盛岡という街に集まる人々の文化水準の高さを再認識させられます。
いま、全国の地方都市の多くが厳しい財政事情を抱えています。効率化やコストカットが叫ばれ、少しでも蓄財へとベクトルを向けようとする風潮のなかで、あえて大きなエネルギーとリソースを一過性の祭りに注ぎ込むことには、どのような意味があるのでしょうか。
蓄積の反対側にある「蕩尽」という考え方
ここで思い出すのが、フランスの思想家ジョルジュ・バタイユが『呪われた部分』などで説いた「蕩尽(とうじん)」という概念です。
資本主義とは、基本的に生産し、蓄積するためのシステムです。しかし人間の社会は、それだけでは息が詰まってしまいます。蓄財とはまったく逆の方向へ、非生産的なまでにエネルギーを使い果たす場。祭りとはまさにそれであり、損得勘定や行き過ぎた資本の論理に対する、強いアンチテーゼとして成立しているのだと思います。
資本だけが流れ込む街に、人は住まない
現在、グローバリゼーションの波は地球規模にとどまらず、宇宙にまで進出しようとしています。その巨大な資本の論理が都市環境に及ぼす影響は、決して小さくありません。実際に、投資運用のみを目的とした資金が都市に入り込み、生活の実態がともなわないゴーストタウンができあがってしまう。そうした現象は各地で見られます。
不動産を扱う立場から見ると、これは遠い国の話ではありません。土地も建物も、そこで誰かが暮らし、働くことで、はじめて価値を持ちます。数字の上だけで所有者が入れ替わり、灯りのつかない部屋が増えていく街は、資産としても長くは保ちません。
こうした行き過ぎた資本主義に対しては、何らかのコントロールが必要であると同時に、資本の論理とはまったく異なる、もう一つの大きな流れを街のなかに創造するという考え方もまた、成立するのではないかと私は思っています。
盛岡には、もう一つの流れがある
それこそが、人々が集い、純粋なエネルギーを解き放つ祭りの存在です。投資利回りや経済合理性だけでは測れない、確かな熱量と文化のうねりが、ここにはあります。
長年にわたって継続して人を集め、第一線で活躍するアーティストたちに数多く出演してもらえる。このような、もう一つの大きな流れを生み出せる文化的な土壌があり、祭りが行われる盛岡という街を、私は心から誇りに思います。
週が明ければ、街はまた静かな日常に戻ります。その日常を静かに支えているのが、一年に一度こうして一気に放たれるエネルギーなのだとすれば、祭りは決して無駄づかいではありません。当社は引き続き、この街の土地と建物にまつわる仕事を、地道に続けてまいります。
いしがきMUSIC FESTIVAL 2026の開催日(2026年9月19日)および会場(盛岡城跡公園会場・マチナカ会場)は、同フェスティバル公式サイトの記載によります。「蕩尽」に関する記述は、ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分』によります。都市と資本、祭りの意義に関する見方は、筆者の見解です。