代表取締役の住所「非表示」、選ぶ人が1.6倍に 制度開始から2年
2024年10月1日に始まった「代表取締役等住所非表示措置」が、2年を迎えます。株式会社の代表者の住所を、登記事項証明書(いわゆる登記簿謄本)では市区町村までの表示にとどめられる制度です。商業登記の書類作成を支援するGVA TECH株式会社が顧客の利用状況を調べたところ、住所変更登記の書類を作った人のうち非表示を選んだ割合は、2025年2〜4月の13.9%から2026年6〜8月には22.4%へと、およそ1.6倍に増えたと報じられています。法務省の月報でも、この措置が講じられた件数は2026年8月までの累計で2万6千件余り(暫定値)にのぼります。
これまで「取引の安全」のために完全公開が原則とされてきた代表者の住所ですが、なぜ非公開を望む声があるのでしょうか。そこには、現代社会が抱える深刻な課題と、制度がもたらす社会的意義があります。
カスハラに対する「物理的・心理的な防波堤」としての意義
企業活動において、顧客側との感情的な衝突が避けられない場面は少なからず存在します。例えば、不動産取引における契約解除や退去トラブルなどは、当事者間の利害が激しく対立しやすい事象です。
近年、こうしたトラブルがエスカレートし、悪質なカスタマーハラスメント(カスハラ)に発展するケースが社会問題化しています。従来の制度では、誰でも法務局で登記事項証明書を取得できたため、悪意を持った人物が代表者の自宅を突き止め、直接押しかけたり、インターネット上に個人情報を晒したりする危険性が常に伴っていました。
公開される住所を市区町村までに限定できるこの制度は、こうした脅威から経営者やその家族の安全を守る「物理的な防波堤」として機能します。起業に伴う個人情報公開のリスクを軽減し、誰もが安心して事業に挑戦できる社会環境を整備するという点で、大きな意義を持っています。
企業情報の「透明性」と実務上のトレードオフ
一方で、社会的な信用を担保するための登記から個人の住所情報が消えることは、経済活動の実務において新たな課題も生み出します。
プライバシー保護と引き換えに、厳格な本人確認を要する場面では手続きのハードルが上がります。法務省自身も、金融機関から融資を受ける際に不都合が生じたり、不動産取引で必要な書類(会社の印鑑証明書など)が増えたりする影響を想定し、申出の前に慎重な検討を求めています。会社の登記だけでは代表者の住所を確かめられなくなるため、取引先から求められれば、住民票の写しなど別の書類で示す手間が生じます。確認コストが増えるというトレードオフです。
これは、社会全体が「企業情報の無条件な透明性」よりも「個人のプライバシーと安全の保護」へと価値観の比重を移しつつある、時代の転換点を示す現象と言えるでしょう。
完全な秘匿性の限界と見直しの動き
経営者の安全を守る画期的な制度ですが、情報の完全な遮断を保証するものではないという「限界」も、社会として認識しておく必要があります。
まず、適用される法人が限られています。現行の制度を使えるのは株式会社の代表取締役、代表執行役、代表清算人だけで、特例有限会社や、近年設立が増えている合同会社などは対象外です。法人形態によって保護に差が生じています。
次に、自宅兼本店のジレンマがあります。起業直後などで自宅をそのまま会社の本店として登記している場合、本店所在地として住所が公開されるため、制度を利用しても秘匿性は保てません。
さらに、過去の履歴の問題があります。非表示の対象となるのは、申出と同時に申請した登記で記録される住所に限られます。それ以前に登記された住所は過去の登記記録から判明してしまうため、すでに登記を済ませた企業が遡って保護を受けることは難しいのが現状です。
こうした限界に対し、見直しも動き始めています。法務省は2026年夏、対象を株式会社から全ての会社と会社以外の法人へ広げ、会社の支配人も加える省令案を示して意見を募りました。経済界からは、過去の登記に残る住所も対象に含めるよう求める意見が出ています。
新しい時代の「信用のあり方」
代表者の住所の非公開化が浸透していく現状は、情報化社会における「個人の保護」と、商取引における「信用の担保」のバランスが新しい局面に差し掛かっていることを示しています。
登記という単一の公的記録にすべての信用保証を依存するのではなく、今後は当事者間での多角的な確認プロセスや、より安全な情報開示の仕組みが求められていくでしょう。社会全体でハラスメントを許容しない土壌を育てつつ、新しい時代に即した「安全で円滑な経済活動のあり方」を模索していく時期に来ています。
本記事の記述は、GVA TECH株式会社の顧客データ(2026年10月6日付の新聞報道による)、法務省「代表取締役等住所非表示措置について」「代表取締役等住所非表示措置の申出による実施件数(月報/令和6年10月〜令和8年8月)」、日本経済団体連合会「『商業登記規則等の一部を改正する省令案』に対する意見」(2026年8月21日)をもとにしています。